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その話が面白いかどうかを決めるのは、話者ではなく聴者だっていう話(プレゼンテーションとはなにか)

芸術とはなにか 作文

大学生や社会人なんかになると、自分の考えなり新しい企画なりをプレゼンテーションする機会って増えますよね。

でもプレゼンテーションってなんだか気恥ずかしいし、やり方もイマイチ分からない。なので個人的には「できれば避けて通りたい」だなんて常々思ってます。

ただどうせ何かを話すのであれば、「面白かった」とか「聞いてよかった」って思ってもらいたい。ということで、(実際に自分ができるかどうかは置いといて)人に面白いと思ってもらうために押さえておくべき本質のようなモノ(よく出回っているプレゼンのノウハウのようなモノではなく、そういったノウハウが前提としている本質的な部分)について書いてみたいと思います。

そもそもプレゼンテーションとはなにか

まず押さえておかなければならないのは、人はひとりひとりが私的な材料(記憶/情報)を使うことによって「自分だけの現実」を作り上げているので、同じ空間を共有してはいるものの、実は別々の現実を生きているのだということです。つまり今まさに「目に見えている世界」というのは、自分の脳内という私的なデータベースにある材料で構築された「超個人的な現実(パーソナル・リアリティ)」でしかないわけで、そもそもこれを他人と100%の精度で分かち合うことはできません。

なので例えば「自分の伝えたいこと」を他人に伝えようとする場合、その内容を自分の私的なデータベースにある材料(自分の記憶や価値観)だけで構築してしまうと、別の現実を生きる他人には上手く伝わらなかったりするんですよね。

「そんなの関係ない。自分の目に見えているモノだけがリアルなんだ」といった具合いに「自分の価値基準を絶対視することのできる稀有な人」であればこんなこと気にする必要もないのだけれど、「他人に対して何かしらの情報を発信したい」というのは人独自の生存戦略に基づいた本質的な欲望(『社会とはなにか』又は『オリジナルとはなにか』参照)なので、私を含めた普通の人たちはどうにかして違う現実を生きる他人といい感じに情報を共有しなければなりません。これがまず前提としてあるんです。

ではそんな前提を引き受けた上で、他人と情報を共有するためにはどうすればいいのか?

答えはそこそこ単純で、ようは「自分の伝えたいこと」を私的な材料だけで構築しなければいいんです。そしてその代わりに、他人も共有しているであろう「公的なデータベース(集団的記憶/歴史)」にある材料を使って「自分の伝えたいこと」を構築し、共有すればいい。

当たり前のことをややこしく言いましたが、そんな「自分だけの言葉」を「みんなの言葉」に組み替えることによって他人に働きかける行程の総称を、プレゼンテーションというのです。

人の気持ちになって考えよう

上に書いたように、「自分だけの言葉」を「みんなの言葉」に組み替えることによって初めて他人とコミュニケーションが可能になるわけですが、(あくまで実感だけれど)これが上手くできない人って結構いるような気がするんですよね。

よく「そんなの社会では通用しない」だなんて言うけれど、ようはこれって「私的(又は内輪)な価値基準(及び材料)によって構築された自分のやり方」に固執する個体(例えば子供)に対し、「公共の場では、そんな私的な現実でしか機能しない方法(わがまま)なんて誰も認めないぜ」ということを指摘するときなんかに使われるフレーズです。

若い頃って基本誰でもそうなのだけれど、いい年してても「自分のやり方」みたいなのを曲げなかったり押し付けてきたりする人って、どんなコミュニティにも一人くらいはいますよね。

いっても理屈が通っていたり、実際その場で機能していたりするのであればまだいいんです。ただ多くの場合それは「たまたま上手くいっただけの過去の成功に囚われたやり方」だったりするわけで、機能していないにもかかわらず相手がそれを強引に押し付けてくるような人だったりすると、少なくとも私だったらきっと心を閉ざします(個人の関係性の中であればまだ笑えるけれど、国家単位でこれをすればもはや内政干渉を飛び越えて、植民地政策と言っても過言ではないでしょう)。

そもそも他人と情報を共有する上で最も重要なのは、「相手に理解してもらうこと」なはずなんですよ。つまり厳しく叱ろうが優しく諭そうが、結果的に相手が理解してくれればそれでいい。でも自分の現実を世界共通の現実だと勘違いしている(又は過去の成功体験に縛られている)人というのは、どうしても情報を伝達する際に「自分のやり方(伝え方)」を押し通そうとしてしまう傾向が強いように思います*1 。どのコミュニティ内でも、いわゆる「揉め事」と呼ばれるモノの中心にいるのは大概そういう人たちなんじゃないのかなって、勝手ながら思ってます。

仮にその「自分のやり方(伝え方)」がその場で(ワンマン経営的な意味で)機能していたとしても、それが自分の私的な現実の価値基準から導き出された方法である以上、長期的に見れば必ずどこかで歪みがうまれてくるはずです。

まあ自分がそうならない為に心がけることというのはシンプルで、誰もが幼いころに親や先生から口うるさく言われたように「他人の気持ち(相手の持っている材料や立場、及びそれらを根とする人格)」になって考えるクセをつければいい。結局なんだかんだでこれが真理なんだと思うんですよね。

なんだか鼻で笑われそうなことを書いてしまいましたが、つまりは「自分の考え」を「自分の方法」で伝えようとすればコンフリクトが起こるのだから、自分の考え自体は曲げないまでも、その「伝え方(方法)」は相手に合わせる必要があるのだということでしゅ。失礼、かみまみた。

ただこれって言葉にすると簡単かつ自明すぎるわりに、いざやるとなると(先にも書きましたが)結構難しいのかもしれません。例えば芸人に認められている割に売れない芸人さんって結構いるけれど、彼らが売れていない理由というのも、(全てではないにしろ)これが出来ていないからなんじゃないかと個人的には思っています(もちろんこれは「芸人」には限りません)。

売れている芸人は「優しい」

以前テレビで千原兄弟の千原ジュニアさんが、「売れていない芸人はお客さんに厳しい。反対に、売れている芸人はお客さんに優しい」というような事を言っていたのを妙に覚えているのだけれど、これって芯を突いていると思うんですよね。

つまり売れていない芸人さんというは、「自分の経験の中で自分が面白いと思ったこと」を、お客を説得することによって受動的に笑わせようとする傾向が強い。つまり自分が美味しいと思う料理(と材料)を押し付け、「な?美味いだろ?」っとその料理を食べさせようとする。ここでの文脈を踏まえて言えば、これは「自分の中にある材料だけで構築した現実」の押し付けにあたります。

反対に売れている芸人さんというのは、「自分の経験の中で自分が面白いと思ったこと」をレシピ化するのが上手いんですよね。そのレシピを伝えた上で、完成した料理がいかに魅力的かを伝えようとする。つまりそのレシピを受け取ったお客さん一人一人に、それぞれの私的なデータベースにある材料でそのレシピを再現する事を促し、能動的に笑ってもらえる状況を作ることができる。ここでの文脈で言えば、自分の現実に起こった出来事を、お客も共有しているであろう材料を使うことによってプレゼンテーションしている。

まあそれを自覚しているからこそ、彼らは「間」と呼ばれる「お客がレシピに沿って自分の材料を使ってそのネタを調理する時間」を重要視しているのかもしれません。つまり彼らは、「客が作り上げた自分だけの料理が最も美味しくいただけるタイミング(の最大公約数)」を読んで(そこに「つっこみ」を入れて)いるのだということです。

最後に

「自分が本当にいいと思うものしか作らないし認めない」とか、「理解できない大衆はバカだ」とか言っちゃう人の気持ちって、私も制作者なので凄くよくわかりますし、特に間違っているとも思いません。

でも社会が有用な情報を共有する為の公共のネットワークであり、私たちが社会の中で他人と関わっていかなければならない以上、「社会に共有されるべきモノ」というのはあくまでも「社会の中で機能するモノ」なんです*2

自分がどんなに「ヤバイ」っと思うモノを作っても、その「ヤバイ」が自分の中にある材料だけで作られているのであれば、その「ヤバイ」に社会的な価値が付くことはありません(もちろん自分にとっての価値はある)。「自分だけのヤバイ」に社会的な価値を付けたいのであれば、その「ヤバイ」を多くの人も共有しているであろうデータベース(正確には「自分が情報を流そうとしている任意の社会の構成員」が共有しているであろう文脈/データベース)にある材料を使って構築し直さなければならないのだということ。そしてなおかつそのプレゼンテーションが共有先の社会の構成員に認められて初めて、その「ヤバイ」に社会的な価値が付くんです。

何かを他人に伝えたいと思うのであれば、この原則を忘れてはいけません。
いうまでもなく、自戒を込めて。

*1:そもそも自分が情報を共有したいにもかかわらず、その方法まで自分で決めるだなんてだいぶ身勝手な振る舞いですよね。例えば買い物をする(自分の欲求を満たす)時に、その決済方法を自分で決めるだなんてこと、普通はできません。当たり前のことですが、自分の要求を通すときには、相手も納得できる対価(この場合は「お金」)を支払う必要があるんです。

*2:ちなみにここで書いているのは大衆化の話であって、大衆迎合の話ではありません。そもそも大衆に迎合するというは、「今機能している価値に置きにいく」ということですよね。ここで書いているのは「自分だけの面白い」という「まだ価値の定まっていないモノ(大衆にとっての未知)」に価値を付ける為には、プレゼンテーションが必要だというお話しです。
ちなみにこの記事では一見「自分の価値基準を絶対視している人」を非難しているように見えるかもしれませんが、「結局社会を変えていくのはそういう人だったりする」というのは(残念ながら)事実です。そういった人たちに期待(と嫉妬)しているからこそ、「とはいえ自分の価値基準を社会で通すためにはそれなりの手順がある」ということを書きたかった。これが真意です。