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「昔のほうが良かった」だなんて思う事、ありませんか?

作文

最近はどれもこれもがどこかで見たことのあるようなコピーや劣化版ばかりで、全然おもしろくないですよね。

昔は良くも悪くも世界をひっくり返すような出来事や発見がたくさんあったし、映画も音楽も美術も建築も昔はもっとオリジナリティがあったというかなんというか、まぁとにかく昔のほうが社会全体が生き生きしていて、とってもキラキラしていたような気がするんですよ。それに最近の若者も大人しい子ばっかりでぜーんぜん面白くない・・・だなんて爺臭いこと、思うことがないわけでもない今日このごろです。

まあ実際のところ「昔のほうが良かった〜」とか「最近の若者は〜」みたいな話をすると嫌われるんですが、こういう話ってよく聞くし、そう感じるのにもそれなりの理由があるんですよね。

ということで、今回はそんな「古き良き時代」への思いを拗らせている同士へ向けて、「愛」を込めて書いてみます。

前提

まずはこの記事の前提となる部分を、以前書いた「社会とはなにか」から抜き出しておきたいと思います。

  • 私達のような「地球上で生きているモノ」の最大の目的は、「生存し続けること」。

  • その目的を達成する上で最も妥当な方法というのは、とにかく個体数(及び多様性)を増やすこと。さらにいえば、個体数を安定的に確保するためにはナワバリ(安全な場所)が必要なので、多くの生物にはナワバリを確保しようとする(そして守ろうとする)本能がある。そして個体数が増えればその分その数を維持していく為のコストも増えるのだから、個体の増える見込みがある以上、ナワバリは拡大し続けなければならない。

  • とはいえナワバリを広げる為には、当然ながら今いる場所(既知)から行った事のない場所(未知)へ飛び出していかなければならない。でも普通の生物はこの複雑な地球環境においては文字通り丸裸なので、「丸裸でも生きていられる場所(同じ条件下)」でしか基本的には活動できない。

  • 人間は個体同士の複雑な相互作用が可能であったため、社会という情報共有ネットワークを構築することによって「未知の情報」を仲間と分担しながら収集し、発見したことや具体的な対策なんかを共有することによって少しずつ「ナワバリの外にある未知」を攻略することができた。人間はこのイノベーションによって環境適応能力を飛躍的に伸ばし、地形・気候・動植物といった条件の異なる様々な場においてナワバリを広げることができるようになった。

”アーモステクネドットエックスワイゼット”「社会とはなにか」より

付け加えると、私たち人は「ナワバリを獲得して繁殖する」という基本的な活動をより確実に行っていくために、「この地球という圧倒的な未知を気合と根性で分析し倒し、理解することによってコントロールしてしまおう」というより高度な戦略を採用しているのだということ。そしてその目的を達成するために分業した結果、いつの間にか細分化し過ぎてしまった無数の系(知恵・学問・文化・宗教・人種 etc)は、私たちの戦略上いずれは人類単位の大きな社会(グローバル空間)の中で再編集される(グローバリゼーション)ことになるのではないか。いや、普通に考えたらなるだろう。

これがこの記事の前提です。

(社会の)成長期

子供の頃って、自分の活動範囲ってある程度決まっているじゃないですか。でもある時、その活動範囲の外に踏みだす瞬間ってきますよね。

始めて隣の町へ行った時だったり小(中・高・大)学校に入学した時。旅行に行った時だったりインターネット上のコミュニティを覗いた時。地方出身者であれば上京した時だったり、バイトやインターン、新卒で就職したり転職した時だったりなどなど、誰でも生きていればそういった経験っていくらでもあると思うんです。

私も当時怖くて踏み出せなかった「踏切の向こう側」へ始めて踏み出した時のこと、今でもはっきり覚えています。これって正にそれまで限定的だった自分の活動範囲(ナワバリ)が拡張した瞬間なわけで、言葉にならない緊張と期待でワクワクしたんだと思うんですよ(別に特別なことは何も起きませんでしたが)。

今書いたことっていうのはあくまで「個人」を基準としたお話ですが、これって企業や国家(及び思想なり文化)であっても基本的に変わらないと思うんですよね。

雑に図解するとこんな感じ。


<図①> f:id:inplugoutjp:20160611235622p:plain f:id:inplugoutjp:20160611235636p:plain


<図②> f:id:inplugoutjp:20160611235647p:plain f:id:inplugoutjp:20160611235659p:plain

このように成長期にあるモノ(個人・コミュニティ・企業・国家・文化・宗教 etc)っていうのは、その活動範囲の外部にある未知を積極的に取り込むことによって、どんどん太っていくんです。

そんな成長期において最も輝きを発する個体(又はコミュニティ・企業・国家・文化・宗教)の特徴は、「型破りで変わり者、破天荒で頭の線が何本も切れているようなヤバイやつ」というような、昔ながらのステレオタイプ化した古めかしいある種の「芸術家像」を地で体現しているような人達。

結局これっていうのも人の活動範囲(社会/情報共有ネットワーク)と実際の世界のサイズに差があった、つまりは私達の活動範囲というフレームの外部に未知が溢れていたからこそ、(型破りで頭の線が何本も切れているからこそ)身勝手に未知に飛び込んでいってしまうようなヤバイやつには価値があり、彼らの持ち帰るモノには社会をひっくり返すようなダイナミズムがあったんだと思うんですよね。

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ようは昔はヤバイ奴らが好き勝手に「自分の見たいモノ(自分の私的な関心を突き詰めたモノ)」を作ったり持って帰ってきただけなのにもかかわらず、結果的にそれがこれまでの常識を覆す(又は大衆の潜在的ニーズを満たす)モノだった、というようなパターンがそれなりにあったのだということ。 いわゆるワンマン経営者や、「俺は全くブレずにここまできたぜ」的なオリジナリティを売りにする作家が輝きを放てたのも、社会が成長期だったからに他なりません。

(社会の)成熟期

さてさて、地球がもし仮に無限だったとするならば、私たちは永遠に成長し続けることができたのかもしれません。ただ言うまでもなく、地球って有限なんですよ。

例えば国家というフレームで見てみても、実際に一昔前まで色々な国がそれぞれ自分勝手にナワバリ争いをしていたじゃないですか。でもそれも地球が丸くて有限だという単純かつ物理的な設定の問題で、あっけなく行き詰まってしまいましたよね。

なんだかバカみたいなお話ですが、私達の活動ってそもそもは生存率を上げるために場の情報を収集し、それをみんなで共有して記録を残していけば合理的だよねってところから始まっているので、地球が有限だという事実って後から出てきた想定外の問題だったんです。

無限だと思って使い倒してきた環境資源は、地球と同じく有限でした。無限に増やしていくはずだった人口も、これ以上増え続けたら地球上では養えそうにありません。安く作って高く売ることによって無限の経済成長を実現させるはずだった資本主義も、その安く作れる場というのが地球上にはもうわずかしかない。グローバル化によってフラットになったといいつつも、格差によって富を生み出すという構造自体が無くなるわけではありませんから、必然的に格差は国と国だけでなく個人と個人の関係性においても目に見えて発生するようになりました。

ずーっと昔であれば単純にフロンティアに活路を見い出せばよかったし、ちょっと昔であれば弱そうなところから無理矢理奪ってくればよかったんです。でも今では地球上にはフロンティアと呼べるような場所は実質無いし、侵略行為は「皆でシェアしている有限の場において乱暴で身勝手な振舞いをする」ということになってしまいますから、周りに叩かれて孤立(損を)するのは火を見るよりも明らかですよね。よってこれはあまり良い手では無いわけです(仮にやるにしても、その侵略行為を正当化する理屈が必要)。

つまり「今」って原理性の異なる国や民族同士であったとしても、(相手を滅ぼせない以上)無理矢理にでも共存可能なプラットフォームを編集していかざるをえない状況になっている*1。そーゆーわけなので、不完全かつ限定的ながらもバラバラだった集団同士は妥協することによってゆるやかに接続(グローバリゼーション)されることになり、結果的に「人類」の活動範囲(ナワバリ)は惑星全域に及びつつある、というのが現在の状況なんですよ。

これって国や民族の階層で見るとなんとも言えない妥協感が強いのだけれど、「人類」の階層で考えれば至極真っ当な帰結といえるでしょう。

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悪い癖で大きな話を性懲りもなくしてしまいましたが、ポイントは2点です。

  • 人類の活動範囲の外にある(本質的な意味での)未知が、(地球という限定的な領域に限って考えれば)だいぶ目減りしている。
  • 原理性の異なる集団同士が、無理矢理にでも「人類の活動範囲」の中で共存していかなければならない。

こういった前提を踏まえた上で、今求められる想像力(のトレンド)がどういったモノなのか? まあ、誰でも分かりますよね。

それは外部にある未知を発見して持ち帰ること、なんかでは当然なく、「すでに発見されたモノ(既知・リソース)をさらに広く深く共有していく為の(又は原理性を解く)方法」です。

よって「オリジナリティがあるかないか」というような発想や、「今まで見たこともないモノを作ろう」というメンタリティ自体、残念ながら時代遅れだと言わざるをえません。そしてこれは人類の地球上における活動が、(長いスパンで見れば比較的ここ最近)成長期から成熟期に移行したことを表しています。

最後に

言い方を変えてあらためて同じことを書くけれど、今って少数に刺さる原理性の強いモノ(オリジナル)よりも、みんなに触れることのできる原理性の薄いモノ(コピー及びそのパターン)の方が、「より多くの人」に求められているんです。つまりはキレッキレに研ぎ澄まされた尖ったモノをいかに作るかって発想よりも、「既に発見された尖ったもモノをいい感じに丸くする方法をいかに創造するか」ってところに(未知が目減りしているのだから必然的に)トレンドが移ってしまったのだということ。もちろん「型破りで変わり者、破天荒で頭の線が何本も切れているようなヤバイやつ」的なメンタリティの持ち主達にそんな器用真似は(基本的には)できませんから、結果淘汰されてしまうんです。

最近のクリエーターやアーティスト、芸人に役者やタレントなんかは「頭が良くて真面目で常識人が多い(だからこそ、つまらない)」だなんて言われるけれど、そりゃそうなんですよね。

こういった兆候はどの領域でも現れていて、部屋にこもって一人でプレイするRPGの新作よりも空き時間に手軽に遊べるソーシャルゲームのほうが(より多くの人に)求められているし、一人のカリスマ的なアイドルよりも普通の頑張っている子を集めたアイドルグループのほうが人気を集めます(同人誌・ニコ動・SNS・ボーカロイド・ユーチューバー・クックパッド・食べログ・クラウドファンディングなどなど、例を上げればキリがない)。

ある種の寂しさのようなモノを感じないわけでもないけれど、まあこの流れは人の生存戦略上必然なので、しょうがありません。 ONE PIECEの世界でいうところの"ひとつなぎの大秘宝"を求めてワクワクドキドキしたかったのにもかかわらず、既にメチャクチャやり込まれてしまっているゲーム(「この地球という圧倒的な未知を気合と根性で分析し倒し、理解することによってコントロールしてしまおう」)に後から参戦しなければならない「現代のヤバイ人達」は、もしかしたら不幸なのかもしれません。

とはいえ、いってもここでいう成長期や成熟期っていうのは、地球上という限定的な領域に限った場合の話です。なので何かしらの技術革新によって活動領域が他の惑星(又はそれに相当する別のなにか)にまで及ぶようになれば「私たちの活動範囲という限定的な領域」が拡張するわけで、当然話は変わってきます。

そういうことなので、オリジナリティとかブレない自分にこだわりを持つヤバイ方々も、頑張って長生きすれば将来また活躍できるかもしれません。

どれだけの時間を要するのか見当もつきませんが、頑張ってください。

*1:別の選択肢としては、「これまでのこと」を無かったことにして、別の価値基準によって新たな世界を構築するという手もあるにはあるんです。いままさにそれをやろうとしている集団、ありますよね。それが良いか悪いかに関してはここでは踏み込みませんが、「国」や「民族」、「宗教」のフレームでモノを考えれば、選択肢としては理解可能・・・とここでは考えます。