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社会とはなにか

社会ってなんだろって、考えたことありますか?

「社会」って普段なにげなく使ったりするけれど、なんか分かるようで分かりませんよね。

とはいえ私たちが生物であり、私たちの最大の目的が「生存し続けること」である以上、地球上という限定的な領域における生物の生存戦略と社会が無関係であるとは考えられません。

現代社会の複雑な内部構造に関しては専門家ではないのでよくわかりませんが、「社会を形成してしまうこと」自体には生存戦略的な意味(又は機能)があるはずですよね。

よってここではそんな分かるようで分からない社会という曖昧な概念の輪郭線を、サーッと引いてみたいと思います。

本題に入る前に、一応ベタにウィキペディアを(内容的にはほぼ同意なので)引いておきます。

「社会」ウィキペディア日本語版ー最終更新 2015年7月24日 (金) 12:20 社会(しゃかい 英: Societyソサイエティ、羅: Humana societasフーマーナ・ソキエタース)は、人間と人間のあらゆる関係を指す。 社会の範囲は非常に幅広く、単一の組織や結社などの部分社会から国民を包括する全体社会までさまざまである。社会の複雑で多様な行為や構造を研究する社会科学では人口、政治、経済、軍事、文化、技術、思想などの観点から社会を観察する。 ・・・ 社会は広範かつ複雑な現象であるが、継続的な意思疎通と相互行為が行われ、かつそれらがある程度の度合いで秩序化、組織化された、ある一定の人間の集合があれば、それは社会であると考えることができる。社会を構成する人口の規模に注目した場合には国際社会や国民国家を想定する全体社会や都市や組織などの部分社会に区分できる。さらに意思疎通や相互作用、秩序性や限定性という社会の条件に欠落があれば全てを満たす社会と区別して準社会と呼ぶことができる。 人間は誕生してから死去するまで社会の構成員の一人であり、また社会の行為者でもある。都市または農村において育ち、家庭や学校などでさまざまな教育を受けながら成長する。この過程で社会に存在している規範や法、宗教や芸術などの文化に触れ、そして家族外の人間関係を拡大していく。これは人間の自我の確立と同時に社会化の過程でもある。 成熟してからは自営業で、または政府機関や企業や軍隊に入り、労働を通じて報酬を得て生活する。これは国民社会、地域社会、家族などの多重的な社会関係を構築する人間の組織化であり、また分業化された社会における協働という社会交換の過程である。このように人間は、社会を形成すると同時に形成され、社会に働きかけながら社会から働きかけられながら活動している。 社会は人口集団、都市形態、経済発展、政治体制、宗教などによって多様性を観察することが可能であり、時代や地域によってさまざまな社会の形態を見ることができる。

社会の原型はナワバリにある

私達のような「地球上で生きているモノ」の最大の目的は、「生存し続けること」だと言われています。

そしてその目的を達成する上で最も妥当な方法というのは、多くの生物がそうしているように、とにかく個体数(及び多様性)を増やすことですよね。さらにいえば、個体数を安定的に確保するためにはナワバリ(安全な場所)が必要ですから、多くの生物にはナワバリを確保しようとする(そして守ろうとする)本能があるんです。

個体数が増えればその分その数を維持していく為のコストも増えるので、個体の増える見込みがある以上、ナワバリは拡大し続けなければなりません。

とはいえナワバリを広げる為には、当然ながら今いる場所(既知)から行った事のない場所(未知)へ飛び出していかなければなりませんよね。でも普通の生物は、この「未知の場に飛び出していかなければならない」という生存戦略上避けることのできない種からの要請に対し、本能及び刹那的な経験でしか対応できません。

例えば危険な海に最初に飛び込んでいくペンギンの事を「ファーストペンギン(勇敢な開拓者)」だなんていうけれど、これだって実際にはその群れの中で相対的にせっかちな個体が種の要請に従って飛び込んでいるに過ぎない、というのが事実なんだと思うんですよ。

彼らはこの複雑な地球環境においては文字通り丸裸であり、「丸裸でも生きていられる場所(同じ条件下)」でしか基本的には生きていくことができません。

ただ、人間の場合は少し違うんですよね。

人の場合、「ナワバリを獲得する(又は守る)為に誰れかが命をはらないといけない(戦略上誰かが未知に飛び込まなければならない)」という前提は他の生物と同じでも、もう少し解像度の高い戦略を練ることができる。そしてそれを可能にしているのが「社会」というネットワークだ、というのがここでの主張です。

普通に考えたら、(ナワバリを拡大するために)未知なる場に飛び込むことが避けられないのであれば、時間の許す限りその未知の情報を仲間と分担することによって収集し、発見したことや具体的な対策なんかを共有しながら少しずつ攻略していったほうがいいに決まっていますよね。

それに(ナワバリを拡大するための)旅の記録を仲間と共有しておけば、仲間の旅の成果を踏まえた上で、別の誰かがその続きから攻略を始めることができる。

人は個体同士の複雑なコミュニケーションが可能であった為、こうしたナワバリ内の相互作用(社会性)を強化することよって環境適応能力を飛躍的に伸ばし、地形・気候・動植物といった条件の異なる様々な場においてナワバリを広げることができるようになったんです。

まあそんなこんなで私たちの知っている「社会」という概念の原型が、このナワバリ(内の相互作用)にあるのはおそらく間違いないでしょう。

とはいっても「現代における社会」が、それイコール「ナワバリ(例えば国家)」かといえば、誰もが違和感を持つと思うんです。それに上に書いていることって、実は社会性を持っているとされるアリやハチにも(概ね)当てはまるんですよね。なのでそういった社会性を持つ生物と人の違いについて、もう少し書いてみます。

人間独自の生存戦略

f:id:inplugoutjp:20150531151433j:plain よくよく考えてみると、ナワバリを獲得し、見てくれの安全な場所を築き上げたとしても、この地球という場で起こる大規模な環境変化に対応できるわけではありません(現にかつて地球上では幾度となく大絶滅が起きています)。

つまり「ナワバリを獲得してひたすら繁殖する」という「種」の戦略は、「今」に対応する上では優れた効果を発揮しますが、「今が前提としているルール(環境)の変更」には上手く対応できないんですよね。

正確に書くと、「生命の存続」という遺伝子レベルの大きな目的は達成できる(99%の種が死滅しても1%の種が残ればいい的な)かもしれないけれど、これではいつまでたっても「種」は(遺伝子からすれば)いくらでも替えのきくコピーでしかなく、その身分を脱する事はできません。

このオリジナルである地球環境に対して「受け身の姿勢を取らざるをえない」というのは、(社会性を持っている生物も含め)全ての生物に共通している問題(というか世界の構造)なので、しょうがないといえばしょうがありません。ただ、人間にはこの問題を突破できる(かもしれない)戦略というものがある。それは、「地球という未知そのものを分析し、理解し、できることならコントロールしてしまおう」というものです。

普通に考えれば、「種としての生存」をより確実にするためには「今」に対応する(ナワバリを確保し繁殖する)だけでなく、「これから起こるかもしれない不測の事態」までをも想定し、準備したほうがいいに決まってますよね。

そして「これから起こるかもしれない不測の事態」を想定する上で最も有効な手段というのは、「これまで何か起こってきたか」を知ることです。

ただ赴くままにナワバリを獲得して繁殖しててもダメ(普通の生物)だし、ナワバリ内の相互作用を強化することによって環境適応能力を上げたとしても、環境そのものの変化にまでは対応できない(社会性を持つ生物)。

こういった前例を受けた上で(かどうかは知りませんが)、人は「この地球上におけるこれまでの発見や出来事」を記録し、編集し、後続世代にその成果を引き継ぐという、他の生物とは一線を画す独自の戦略を打ち立てているんです。

この戦略を採用することによって「歴史という公的なデータベース(過去の事例を検索可能な仕組み)」が起ち上がり、それまで「私的な価値基準(本能及び刹那的経験/「私」がそれをどう思うか?)」でしか対象をとらえることが出来なかった私たちの中に、公的な価値基準(理性及び集団的経験/「私たち」がそれをどう思ってきたか?)というものが生まれました。

これによって「誰でもいいからとにかく今を生き延びろ」という種の要請に対して、私たち人は記録してきた「これまでの出来事(及びそれに向き合ってきた集団的経験)」を踏まえることが可能になったため、この複雑な環境(及びその変化)への対応力までをも飛躍的に上げることが出来たのです。

この戦略によって、最終的に地球環境という圧倒的な未知を完全なる既知に塗り替えるだなんてことがもし仮にできたなら・・・それが良いか悪いかは置いといて、そのとき人はこの地球環境をコントロールすることによって、最大の目的である「生存(し続けること)」をより強固なものにすることができるのかもしれません。

ナワバリ内の相互作用をアップグレードしたことによって、私たちの社会は複雑化した

上に書いているように、私たちは「生存し続ける」という最大の目的を達成する為の戦略を、「ナワバリを獲得してとにかく繁殖する」というものから「ナワバリを拠点とすることによって地球という未知そのものを分析し、理解し、できることならコントロールしてしまおう」というものに、どこかのタイミングで切り替えているんです。

先に「人は他の生物とは一線を画す独自の戦略を打ち立てている」だなんて書いてしまいましたが、いっても私たちが採用している戦略だって、他の生物たちの採用している戦略の延長線上にあるのだということは間違いありません。

現に、戦略を切り替える以前から獲得していたナワバリ内の相互作用(社会性)は、この新たな戦略においても活用されており、個体からフィードバックされる「地球という未知に関する情報」を記録する貯蔵庫としての役割を果たしています。

つまり初期の頃はナワバリを合理的に運用するためのモノでしかなかったナワバリ内の相互作用(社会性)を、この「地球環境という未知をコントロールする」というより高度な戦略を遂行する為のコアシステムへとアップグレードしたところに、人の独自性があるんです。

ちなみに、言うまでもなくこの地球という圧倒的な未知をまるっとそのまま理解することなんて不可能ですから、当然役割を分担することによってこの戦略を進めていかなければなりませんよね。

その構造をざっと書き出すと

  • 人の個体は私的な価値基準に基づいて自由に情報を収集し、それをナワバリに持ち帰るようになっている。

  • ナワバリに集められた「この地球という未知に関する情報群」は、記号(動作・音・図・言語・文字など)に変換されることによって記録されるようになっている。

  • 結果、対象となる未知の質やナワバリの地理的な環境、及び記録に用いられた記号の違いによって、様々な体系(ジャンル及び文化)が生まれた。そしてそれらはパイを分け、細分化し続けながら現代まで引き継がれている。

  • 人の個体は成長の過程の中でこの細分化した何かしらのジャンルに接続し、そのジャンルの延長線上において何かしらの成果を積み上げることによって、間接的に人間独自の戦略に貢献している*1

とまあこんな感じでしょうか。

雑に言ってしまえば、この「拠点となったナワバリ及び記号」の違いこそが、いわゆるジャンルや文化の違いなのだということ。よく「あらゆるジャンルや文化は根底では繋がっている」だなんて言われるけれど、人間独自の新たな生存戦略が現代まで引き継がれてくる中で、パイを分けるうちに細分化しただけなのですから、当然といえば当然ですよね。

・・・
ということで最後にここまでの流れをまとめつつ、「人の持つ社会とはなんなのか?」というこの記事の主題に接続して終わりたいと思います。

最後に(人の世界における「社会」とはなにか?)

普通の生物たちは、より永く存続し続ける為にナワバリを獲得して繁殖するという戦略を持っている。そして社会性を持つとされる生物は、ナワバリ内の相互作用をシステム化し、役割を分担することによって、普通の生物と同じ戦略をより合理的に遂行する事に成功している。先にも書きましたが、一般的に言われるところの「社会」とは、このナワバリ内の相互作用のことなんです。

ただ「人の世界における社会」がそれすなわちナワバリ内の相互作用かといえば、そんなにシンプルではありません。私たち人はナワバリを獲得するのは勿論のこと、そのナワバリを拠点とすることによって「この "地球環境という圧倒的な未知" そのものを理解し、できることならコントロールしてしまおう」という他の生物とは異なる独自の戦略を進めているので、私たちの社会は他の生物のそれに比べて高度に複雑化しているからです。

あまり意識はされてはいませんが、人って実は誰もが"地球環境という圧倒的な未知" を理解する為に振り分けられた何かしらの作業(職業・趣味・日々の営み)に従事しており、それぞれの作業記録をそれぞれの後続世代に引き継ぐようにプログラムされているんですよ。そしてそんな中で収集された情報群というのは、その質や変換される記号、及びナワバリの違いなどの様々な要因によって体系が分かれ、結果いわゆるジャンルや文化(及び同じ思想信条を共有するコミュニティー)というモノがあらゆる場において乱立しています。

こういったひとつひとつのネットワークは「個体の繁殖を目的とするわけではない新しいナワバリのようなモノ(俗に島宇宙ともいう)」であり、その新しいナワバリに引き継がれている系というのは、日々集合知的に編集され続けているのはもちろん、時には別の系とも交わることによって日々複雑化しているというわけです。つまり人にとっての社会とは、個体の繁殖を目的とした旧来のナワバリ内における相互作用(ネットワーク)だけでなく、この地球という未知を検証する為に分業した結果生まれた無数のコミュニティーやジャンル、文化内の相互作用(その系をフォローする人々のネットワーク)をも含むのだということ。そしてその「人の社会」は、大きさや質の違いによって家族・友人・クラスメイト・社内・業界・思想及び趣味のコミュニティ・SNS・自治体(地域ネットワーク)・国家・宗教・人種・グローバル空間などと、その名称を変えるのです。

すなわち人における社会とは、「この地球という圧倒的な未知を既知に塗り替えるという人独自の戦略を遂行する為に相互作用している、あらゆる情報を共有する為のネットワークの総称」となるのではないでしょうか。

つまり私たちの世界においては、そこに「私」と「他人」さえいれば、(個体の繁殖を目的とせずとも)その「場」は「社会」となるのです。

*1:実は「何かに興味を持ち、勉強し、時分なりの解釈をして、それをアウトプットする」ということ自体が人独自の生存戦略に基づいた営みなんですよ(参考:キュレーションとは何か)。例えば「ラーメン屋になりたい」と思っている個体というのは、料理の下位概念である「ラーメンというミニゲーム」に参加する事によって、間接的に「この地球という未知を理解し、コントロールする」という大きなゲーム(「料理」はこの大きなゲームの下位概念)の攻略に参加しているのだということ。もちろんこれは全てのミニゲームに言えることです。