感想と批判の違いについて

いまさらですが、この漫画読みました。

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最初はなんかのまとめサイトでちらっと見ただけだったので気にも止めなかったのだけれど、この漫画に対する感想も含めてちゃんと読んだらなかなか興味深い内容でした。

この漫画の内容、及び寄せられている様々な意見を受けた上で、今回は簡単に「感想」と「批判」について整理してみようと思います。

内容紹介

今更なので内容を改めて紹介するのもどうかなとは思いますが、一応簡単に。
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主人公は自分の大好きなアニメが映画化決定したことを知って、友人と一緒に公開当日にそのアニメを鑑賞します。

主人公自身はそのアニメの期待以上の出来に言葉が出ないほど感動したのだけれど、一緒に行った友人には響かなかったようで、「最悪だねありゃ」「ラストがひどい」「伏線も中途半端」「作画の粗も目立つ」などなど、好きなアニメを友人にさんざん酷評されてしまうんです。

それからというもの、主人公は友人の言葉が頭から離れなくなってしまい、最終的には作品そのものに対する興味を失ってしまいます。

そしてそのような経験から、「一人でも多くの人に知ってほしい 批判は何も産まれない。それどころか、ファンにとって大切な思い出を、ぶち壊すということを。」という結論にたどり着き、そこでこの漫画は終わります。

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冒頭に「興味深い」とか書いちゃいましたが、作品内容に関しては「若いころならよくあること」としか言いようがないんですよね。ただ個人的に思うのは、「感想」と「批判」とではそもそも強度(根拠となるデーベース)が違うのだから、そのままぶつけ合えば言うまでもなく批判が勝つに決まっている、ということくらいでしょうか。

感想と批判の違いについて

こういったことって、若いころであれば誰でも一度は経験したことがあると思うんです。

私も過去になんとなく気になっていた異性の悪口(あいつはとんでもない奴だ的な)を友人に聞かされて、この漫画の主人公(ちなみにこの漫画はフィクションです)と同じようにその相手に興味を失ってしまったことがありました。

この漫画に対する意見で最も多いのが、「その程度で好きじゃなくなるのであれば、最初からそんなに好きじゃなかったんだよ」といったニュアンスの意見。私の経験というのもまさにそうで、たしかに私は「当時気になっていた人」のことを好きなわけではなかったんだなと、今では思っているんです。

というのも、いま考えると私が当時気になっていたその人というのは、あくまで私の「私的な価値基準とシンクロ率の高い個体(つまりタイプ)だった」というだけであり、「同じ時を過ごし、お互いの関係性が少しずつ出来上がっていく中で惹かれていった相手」ではなかったんですよね*1

つまり私はその相手を見ているようで、実際には自分の理想をその相手に投影していただけ(よって見ていたのは自分自身)に過ぎなかったんだと思うんです。実際の相手が「どういう人なのか」を気にも止めず、ただ「自分の理想を忠実に再現してくれる相手(依代)」であってほしかった。ようはアイドルファンが自分の好きなアイドル(自分の理想的な偶像またはそれになりうる原石)を見るような視点で、その人のことを見ていたんだと思います。

一方私の友人は、(それが仮に誤った情報であれ)過去にあったその人に関する何かしらの事例を踏まえた上で、「あいつはとんでもない奴だ」と批判したわけです。つまり、友人には(出処が怪しいとはいえ)その人が「どういう人なのか」を記述しうる根拠(物語)があった。私からすればその指摘というのはいわば「好きだったアイドルのスキャンダル」のようなものであり、今思えば私の中で理想化されていたその人の「生の部分(現実)」を見せられたような気がしたんだと思います。

友人の語った物語に対抗する為の物語(その人との関係性)をこちらは持っていませんから、結果私はなんとも言えないもどかしさを感じつつもその友人の語る「物語の説得力」に飲み込まれ、その相手への興味を失ってしまいました。つまり自分の理想であるはずの相手が(当たり前なのだけれど)自分の理想と違うことにショックを受け、勝手ながら裏切られたような気持ちになったのかもしれません。

何が言いたいかというと、私の「気になる」という気持ちはあくまでも自分の中にある材料だけで構成された「感想」であったのに対し、友人の「あいつはとんでもない奴だという指摘」というのは過去の出来事(文脈)を踏まえた上で下された「批判」だった(少なくとも私の「気になる」よりは「批判」に近かった)のだということです。

人によって育ってきた環境や持っている材料(記憶)が異なる以上、「感想」には他人を説得し得る根拠がありません。一方「人は一人一人違うということを引き受けた上で構築されてきたある種の共通理解」を前提とした上でものを言うのが「批判」ですから、感想よりも批判が説得力があるというのは言うまでもありませんよね。

そしてこの構造というのは、そのままこの漫画にも当てはまるのではないでしょうか。

人には二つのデータベースがある

簡単にまとめると、感想とは「私がそれをどう思うか」であり、批判というのは「私達がいままでそれをどう思ってきたかを踏まえた上で、私がそれをどう思うか」というものです。

そもそも人の世界において、こういった「感想」と「批判」が入り乱れ、衝突しあうのには明確な理由があるんですよ。

例えばこの世界で生きていく上で、普通の生物は「より永く生存し続けろ」という種の要請に私的な基準(本能及び刹那的経験)で対応していますよね。それに対して蟻や蜂などの社会性を持つとされる生物は、種の要請に集団の基準で対応している。そして私達人間は、私的な基準と集団の(公的な)基準の両方でこれに対応しているんです。

つまり私的なデータベースを根拠に「私はこう思う」と考える一方で、集団で構築してきた文脈(歴史・公的なデータベース)を根拠に「私達はこう思ってきたのだから、それをふまえればこうなるよね」とも考える。

よく言われるところの「人間だけが抱えている矛盾」というようなモノも、私的なデータベース(記憶)と公的なデータベース(歴史)の両方を併せ持っているからこそ生まれてくるモノなんだと思うんですよね。そしてここでいう「感想」と「批判」の違いというのもまさにそれで、前者は根拠を私的なデータベースにある材料で構築しているのに対し、後者は根拠を公的なデータベースにある材料で構築しているのだということです。

人の生存戦略というのは、「個体の私的なデータベースを基準とした活動によって収集した情報を、社会(情報共有ネットワーク)にフィードバックすることでその社会の構成員のあいだで共有し、それを世代を越えて引き継いでいくことで公的なデータベース(この世界で生きていくためのノウハウ)を豊かにしていこうぜ」というモノですから、二つのデータベースを併せ持つとはいってもあくまで主軸は公的なデータベース(歴史)の構築なのだということ。よって(少なくとも)人の社会の内部においては、おのずと感想よりも批判のほうが説得力を持つんです。

ようは人を説得したい(共感してもらいたい)のであれば、「私がどう思うか」という感想よりも、「私達がどう思ってきたかを踏まえた上で、私がどう思うか」という批判の方が、単純に打率が高いのだということですね。

最後に

今回は「私が大好きなアニメを見れなくなった理由」を取り上げましたが、ここで書いていることって個人的な体験にも照らしあわせて読むことができると思うんです。例えば「恋と愛の違いは自分中心か相手中心かの違いだ」なんていうけれど、これもここで書いた理屈である程度は説明できるのではないでしょうか。

ちなみにこの記事では「批判」という概念を若干矮小化してしまっているので一応付け加えておくと、この漫画における主人公の友人というのも、(少なくともこの漫画の表現から判断するに)実際は根拠の乏しい物語を持ち出すことによって「批判に見せかけた感想」を言っているに過ぎないのかもしれません(十中八九そうでしょう)。

つまりどちらも感想を言っているに過ぎないのだけれど、友人は少なくとも主人公よりはアニメというモノに深くコミットした上で自分の意見を言っているわけで、主人公よりは友人のほうが「批判」に近かったと。そしてだからこそ、主人公は抗うことができずに説得されてしまったのでしょう。

ある限定的な領域(ジャンル)内において、自分よりも経験値のある個体に「ぶっ飛ばされる」という経験は、きっとだれだって成長の過程で味わうことだと思うんです。なのでこの漫画の主人公(のような人が仮に現実にいたとして)も、自分の本当に好きな物(文脈を背負ってでもコミットし続けていきたいモノ)に出会うことが出来たとき、批判の本当の価値に気が付くことができるのではないでしょうか。



<参考>
【マンガ】「私が大好きなアニメを見れなくなった理由」漫画/micorun [pixiv]
作品を批判され「じゃあお前が作ってみろよ」と反論する人は三流 - ログミー
批判的な意見を見つけたときの心構え。 | 隠居系男子

*1:例えばその相手が自分の幼なじみであれば、「自分がその幼なじみと過ごしてきた時間(これまでの文脈)」は「友人の合っているかどうかも定かではない薄っぺらな主張」よりも強度があるはずですから、そんな簡単に説得されることはなかったはずです。