読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

中島晴矢 個展 「ペネローペの境界」にいってみた

f:id:inplugoutjp:20150712135811j:plain

なんとなく目についたんですよこれ

bitecho.me

気になったのはここ

 私が一貫して描きたいのは「日本の自画像」です。いま、日本のリアリティから出発し、それを徹底して掘り下げることで、逆説的に世界に至るような表現を志向しています。

 その意味で、私と同世代か、私の周りにいるアーティストたちは、この問題にとても自覚的に制作を行っているように思えます。欧米のアートシーンへの過度な憧憬も、日本への過剰な信頼もなく、自身の立脚する地平から世界を見ている。

 そのモチーフは取るに足らないサブカルチャーかもしれないし、自分の家族かもしれないし、日本の政治的状況かもしれない。しかし、それらがごく自然に、グローバルでコンテンポラリーなファイン・アートの歴史に連なる状況が、できあがってきつつあるように思えるのです。

 私も、そういった新しい作家たちのひとりに位置付けられれば、と思いますし、こういった動きが、日本の美術シーンを更新し得るとも思っています。

このあたり普通に共感します。

これからのアーティストに求められるモノ

これからのアーティストに求められるのは、徐々に立ち上がってくるグローバル空間(という新しい社会)のルールを編集するために必要なリソースを、世界各地のローカルな場から掘り起こすことです。よって必然的にグローバル化が進めばアーティストというのは(人種は関係なく)ローカルにこもることになるんですよ。

つまりローカルな場において育まれた技や技術、方法や言語を使って、グローバル空間という新たに形成されつつある社会(ネットワーク)を豊かにするようなフィードバックを、「いかに流すか」が求められると。これはたぶん間違ってません。

ちなみにこのフィードバックというのはローカルな場で生まれたハイコンテクストなコンテンツのことではなく、「編集方法」のことを指しています。世界中どこに行っても人の欲望というものはほとんど変わらないので、文化というモノは抽象的にみればだいたいは同じようなもの(言語を話したり文字を書いたり体の動きでなにかを表現したり歌ったり絵を描いたり)なんです。アウトプットに違いが出てくるのは、インプットにおける材料(地形・気候・動植物)が違うからに過ぎません。

世界がグローバル化するということは、今まで設定の異なる場で生きてきた人々が、同じルールを共有するようになるということですよね(すでにだいぶなってきていますが)。つまりは様々な集団のコンテクストを束ねた上で最低限のルールを設定し、そのルールに則って人類共通のコンテクストを積み上げていこう、という流れなわけです。これは生物の生存戦略上、まっとうな流れだと思います。

まあそんな感じなので、短期的にはローカルな方法の提案合戦(「うちはこういう感じでやってるよ〜」、「いやいやその方法は特殊すぎるからグローバル空間でやるならこうでしょ」)みたいなものが起こるんじゃないかと思ってます。コンテンツだけをプレゼンしてもそのコンテンツの原理性(主要な材料)はローカルな場にあるわけですから、そのままでは基本的にはグローバル空間に最適化できません(「たまたま」最適化してしまう例外はありますけどね)。

重要なのはローカルな場で編集されたソレが「どのように編集されたか」という編集方法であり、その方法をグローバル空間でも手に入る材料を使ってトランスレーションしてやるということ。これがこれからのアーティストに求められていることなんだと思うんです。イメージ的には青森弁のアルゴリズムでロシア文学を起動させてみる(適当ですよ)みたいな感じでしょうか。

そういった問題意識を持っていたので、この「ペネローペの境界」にも興味を持ったんです。

で、行ってみた

タイミングよく知人に誘われたこともあって、待ち合わせて阿佐ヶ谷へ。 しかし、木曜日は休みのようで見ることができませんでした。普通なら残念ということで終わりなんですが、せっかくなので外から覗き見た印象とウェブで適当に調べた曖昧な情報だけを使って適当に考えてみます。

まず(というかシャッターが閉まっていたので他はあまり見えず)パッと目につくのは国旗の境界線が溶けていくかのようなペインティング(たぶん)。端的に「絵」としてみればなんとも古めかしい絵画という感じですが、見渡す限り場にはなんらかの物語がありそうです(まあよくは見えないのですが)。

どうやら「ペネローペの境界」は、ギリシャ神話の「織ってはほどかれるペネローペの織物」を題材に、国境、原理主義、前衛芸術、震災、近代などの「境界」をコンセプトにした展示、らしいです。よってこの絵画をウェイド・ガイトンの作品を見るかのような視点だと古めかしく見えるのは当然で、これは絵画としてではなく、物語の構成要素として見るべきなんでしょうね。

あと見えたのがミシン?みたいなのと砂の上に転がる石膏像の首(どうやらオデュッセイア )でした。これらは表題通り、ペネローペの物語を想起させる装置なんでしょう。その他にも何点かの小さな作品や映像があったようなのですが、よく見えませんでした。

ちなみにTAV GALLERYのサイト上には、本展がフクシマの問題やイスラム国の一連のテロリズムの問題を扱っていることは明かされているし、福島の被災地を訪問し収めた映像および写真(映像系は一切見てない)を元にした作品もあるらしいということもわかっています。また、あの絵画がアリギエロ・ボエッティの《MAPPA》を下敷きにした作品であることも先出しされています。

んで、そういった問題群をどのような編集基準で接続し、調理するのか。私の関心はそこにありました。よって正直見た目とかどうでもよかったんです。だからこそ見てもないのあれこれ考えているってのもあります。

 

中島晴矢というアーティストについて

ネットで調べた感じだと、中島さんは一貫して「日本の自画像」を描いてきたのだそう。そのモチーフを描くうえで中島さんのバックボーンになっているのが、プロレスとヒップホップ。

まさにこれこれ!って感じ。中島さんの扱うプロレスとヒップホップは日本で編集されたプロレスとヒップホップなのでしょう(つまり出自は外国だけれど、日本という場独特の編集が入った「ローカルな方法」)。その「方法」を抽出した上で、グローバル空間の材料である「ギリシャ神話」と「イスラム国」と「フクシマ」を扱っているのだとすればマジで激アツです(勝手な想像です)。

実際見て考えた

あの絵画とミシンとオデュッセイアはどうだったんでしょう。

個人的には日本というローカルな編集方法によって接続された(かつ料理された)ある種の二次創作的物語を勝手に期待したわけですが、パッと見た感じではよくわかりませんでした。それにミシンやオデュッセイアの石膏像と絵画との関係性(接続回路・編集基準)もちょっと私には読み取れませんでした。もちろん見たまんまで言えば「曖昧になりつつ有る境界線」というタグが付いているのは読み取り可能ですが、それは様々な場で起こりつつ有ることなのでわざわざ言うことでもないでしょう。勝手ですが、そこに「方法がどのように介入し、機能しているのか」が見たかったのです。

それにギリシャ神話なりイスラム国、フクシマの物語はグローバル空間にある材料なので、それを日本人がそのまま扱うことにあまり意味(というか効果)はないと思うんです。印象論に過ぎませんが、見た感じではグローバルな材料を、「ネイティブになにりきれないノンネイティブな手続き」で作品化しているようにぱっと見た感じでは見えてしまいました(ちなみにこれは多くの日本人アーティストがぶつかる壁ですね)。が、何度もいいますが映像とかは見ていないので、映像によってそれらの材料が有機的に結びついていく可能性はあります。ここはいつかご本人に直接確認してみたいところです。

会期は7月12日(日)なので今日まで。
最終日の今日は『クロージング・パーティ with 映像上映会』というのが18:00〜20:00にあるみたい。私は予定があるのでいけませんが、現代アートの「これから」に関心あるかたであれば見に行くことをオススメします(私は見てないけど)。正確にはこの展示がどうこうというよりも、中島晴矢という作家のこれからが面白そうなんですけどね。

ちなみに、私は中島さんと面識がありませんし、会場内ではなく外から覗いただけに過ぎません。それにもかかわらず上から目線でいろいろ無礼なことを書いているのも重々承知はしているのですが、それでも強い関心を引く展示だったので書いてみました。

 

中島晴矢「ペネローペの境界」展
会期:2015年6月26日〜7月12日
場所:TAV GALLERY
住所:東京都杉並区阿佐谷北1-31-2
電話番号:03-3330-6881
開館時間:11:00〜20:00

URL:http://tavgallery.com/nakajima/